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Posted by ミリタリーブログ at

2019年10月22日

第3回日華イベントの準備

今週は週末に更新できないので、いま記事を投下する。
南方戦ネタも尽き、週一回の更新も厳しくなってきたが、なんとか年内は続けたい。
バスケットボールの漫画が途中からフェンシングになったように、第3回南方戦ネタは書き尽くしたので暫くは日華イベントネタで乗り切ることにする。


第3回この戦場は南方で着用した複製品の夏衣だが、第3回日華事変イベントの規定に則り、OD塗装されたボタンを外してピカピカのボタンに付け替えた。
また、胸に歩兵科の緋色の胸章を縫い付けた。胸章は、いずれ13-15年ごろをテーマにしたイベントがあるに違いないと予測を立てて、昨年に製作していただいたものである。

南方戦で使用した昭和十五年制の雑嚢は日華事変イベントでは使用不可とのこと。


そこで昭和14年以前に存在した形式の雑嚢を使用することにした。
手持ちのものでそれに該当するのはこの3種類だ。

左から昭和七年制、民生品(上野智史氏著「日本陸軍の雑嚢・背嚢・背負袋に関する研究序説」によれば、事変による動員拡大に伴い民生品買上品も使用されたという)、昭和十二年制改正案で、3品いずれも篠原工房複製品である(民生品および十二年制改は絶版)。

その他、イベントの時代設定合わせて、略帽と脚絆と鉄帽覆星章台座についてOD色絨でなくカーキ色絨のものを使用することにしたり、水筒の負紐を蓋留革を用いるタイプのものにしたり、襦袢を襟の無い旧制式のものを用いることにしたが、夏衣袴そのものや弾入、帯革、牛蒡剣、水筒本体その他は南方戦で用いたものの流用である。
第3回日華事変イベント告知サイト
https://twipla.jp/events/398551  

Posted by 第3回この戦場は南方参加者 at 20:24Comments(0)

2019年10月18日

日華事変イベントに参加する



ようやく秋も深まってきて涼しい日が続くようになった。
夜半、明け方などは肌寒いくらいである。
第3回この戦場は南方の参加者の方が、来月に第3回日華事変イベントを主催するので俺も参加することにした。

実は同じ方が主催した第1回日華事変イベントに参加したことがある。
当初は昭和12年の設定と聞いて、昭和12年の装備は規格低下品や代用品もなく、ハードルが高いと思っていた。
しかし、同イベントの規定を見てみると、意外にも自分が持っているものでいけるではないかと気づいた。
なるべく多くの人に門戸を開くべく、主催の方がレギュレーションについて配慮したのであろう。
この戦場は南方が分隊行動に主眼を置いたイベントなら、第1回日華は装備の統制に主眼を置いたのではないかと思える。そして厳密な再現というよりも、より多くの参加者による統一美を実現すべく、主催の方なりの解釈で規定を緩和したといえる。

俺は昭和16年以降を設定としたイベントに参加するべく装備や被服を購入していたが、やや古い時代にも遡れるよう、旧制式の夏衣や差込尾錠で開閉する雑嚢なども入手していた。それでレギュレーションを賄えたことが第1回日華事変イベントへの参加動機となったのである。
唯一足らなかったのが、歩兵科の緋色の襟章である。旧制式の被服や装備は多少後の時代でも使えるが、さすがに定色絨の襟章は昭和13年で廃止だろうと入手していなかった。
しかし、イベントに参加するためにこれを購入した。

当日は第2回この戦場は南方で同じ斥候組だったイシハラさんと東京駅ホームで合流し現地へ向かった。会場の最寄駅で、中国軍参加の顔見知りの方と会ったのでタクシーを相乗りしようと思ったが、お互い荷物が多く厳しそうだ。幸い、もう1人参加者の方が現れたので、2名ごとに分かれてタクシーに分乗した。帰途は現地で会ったYちゃんに送ってもらった。

現地では、号令に合わせて気をつけや休めや、列を整えたり銃を上げたり下ろしたりする動作の練習を延々と指導された。また匍匐の動作も演練した。
その後、彼我に別れてエアーガンによる模擬的な戦闘を行なった。
翌年、同様の設定で第2回が開催されたが残念ながら参加が叶わなかった。
しかし今回、年代設定も新たに第3回となったのである。
https://twipla.jp/events/398551  

Posted by 第3回この戦場は南方参加者 at 18:25Comments(0)

2019年10月10日

総括 第3回この戦場は南方の趣旨

第3回この戦場は南方の趣旨はなんであろうか。
主催者のブログを今一度読み返してみると、
「分隊による行動体験を行います」
「HIT数を主眼に置く通常のサバイバルゲームとは違い『組織で動く』という行動そのものに主眼を置いてイベントを企画しました」
との記述があった。
上記は第1回開催にあたっての記載事項であるが、その主眼とするところは第3回にも継承されていると感じた。

厳密な装備規定は無いが、実際に参加して行動すると、あれが足りないこれが足らないといったことが体感的に理解できる。水筒が無ければ水が飲めないとか、今回は鉄帽偽装網と円匙を持たずに参加したが、必要性を感じたから次回に備えて用意しようとか、実際に行動を経験することで、そうした気づきが得られるイベントとなったと思う。

このイベントで経験したこと以外にも、兵士の行動には何が必要かということに思考を巡らせれば、歩兵一人の規定の装備が、なぜそのような構成になっているのかが理解できると思う。戦闘だけでなく陣地構築や野営を含めて最低限必要なものであり、かつ自力で持ち歩きできるものということを考えれば、背嚢一式の装具の必要性が実感的に理解できるだろう。

ただ、イベント運営上、限定した状況しかできないので、必ずしも個人装具一式全てがイベント内で活用されるわけではない。しかし、もしも、このイベントに長い距離の徒歩移動や天幕野営、さらには壕での露営などの状況が加わったらどうなるか。この戦場は南方で経験したことをベースに想像力を働かせることで、実際に用意するしないは別として、個人装具一式の意義を実感できるのではないだろうか。

今回、全員が円匙を持っていたわけではないが、「組織で動く」がイベントの主眼であるので、個人としては持参しなくても、分隊内で貸し借りをしながら壕を掘り上げた。障害の資材や土工具も個人では運べないので、組織である分隊で分担して運んだ。

そうした体験を通じて、組織の行動やら、装具の必要性やらを、感じてもらうのが主催の望むところであったのだろう。

また主催のブログには分隊行動を「遊びとしての範疇で」行うとある。
ここで言う「遊び」とは「本気では無い」という意味ではなく、下記のようなニュアンスではないだろうか。
第3回この戦場は南方で俺が経験した、一連の防御の行動は、古今東西の軍隊組織で演習として行われているものを、俺のような知識や経験が浅い者にとっても容易に理解でき行動できるように、噛み砕いたものである。このように軍隊行動をライトにカスタマイズしたものを「遊びとしての範疇」と表現したのではないだろうか。
俺は軍隊の被服を身につけるのが趣味であり遊びだが、集団でそうした遊びを行うとき、各々が無軌道に楽しいと思うことをやるしたら、本当の楽しさを味わう事ができるだろうか?遊びや趣味も一定のルールに基づいてこその楽しさもあるわけで、この戦場は南方の主催者は、第1回で試行的にそのルールを提示し、回を重ねるごとにより良いものとなったのだといえる。


  

Posted by 第3回この戦場は南方参加者 at 18:52Comments(0)

2019年10月03日

第3回南方戦の被服その2

第3回この戦場は南方の開催日からから早や3ヶ月が経過しようとしている。
もう10月であるが、それで思い出したことがある。

気候の変化や生活様式の変化も考慮しなければいけないが、昭和10年代の日本の防暑という概念は、現在の感覚と相当乖離しているのではないかと思ったことがある。
当時の日本陸軍の「防暑衣」は規定通りの着用をした場合、現代日本の感覚から考えて「何が防暑なのかさっぱりわからん」と感じる方も多いのではないだろうか。
 

防暑襦袢に防暑衣を重ねて、襦袢の脇の通風孔のボタンを外し、併せて衣の脇下のフラップを開くと、通気性が良くなるのは、概念としては理解できるが、それを現代日本の真夏日の屋外で真似したところで、防暑どころか我慢大会の感があり、実際に着てみると暑苦しくてたまらない。
これを真似して晴天時の日中の野外で快適に過ごせるとすると南関東だと10月1日以降になるだろうか。

  

Posted by 第3回この戦場は南方参加者 at 20:42Comments(0)